江戸時代初期の遊行僧(諸国を巡り修行する僧)円空が残した五千体近いナタ彫りの木彫仏を『円空仏』という。円空は、一六三二年美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、若くして出家。三十四歳の頃、生涯十二万体造像の悲願を立て、諸国遊行の旅に出ました。その足跡は、北海道、東北、関東、東海、近畿地方などに及び、各地に数多くの『円空仏』を残しています。そして、六十四歳の時、かねての念願通り衆生の救済を願いながら食を断ち、即身仏入定を遂げました。旅先で手に入れた木片を利用し、ナタ彫りで荒削りに刻まれた『円空仏』は今なお多くの人々の信仰を集めています。
間宮山栖了院は永禄二年(一五五九年)この地の領主であった間宮権太夫直綱氏により、
間宮家の猶子である欣誉吟龍上人を請じて、間宮家の菩提所として開創されました。
間宮家は直綱、広綱と続くが元和五年(一六二〇)に三十四歳の間宮之等が隠退し旗本としての間宮家は途絶えてしまう。しかし、間宮家は尾張藩士として連綿と続く。尾張藩士間宮家の初代正等は之等隠退の翌年に生誕した人物で、寛永十六年(1639年)に尾張藩に召し抱えられた。当山栖了院に安置される不動明王と如来像は、名古屋市の間宮家から菩提寺である当寺へ寄進されたものである。
ちなみに、寛文九年作の円空仏七体を祀る鉈薬師の建てられた地(名古屋・東山動物園付近)は、元、間宮家の下屋敷があり、尾張藩奥医師、張振甫がその地を譲り受けた。そういった縁で張氏が鉈薬師を建てた際に、間宮家に祀られる像も造顕されたものと思われる。